近年、食料安全保障の議論が盛んに行われている。我が国の食料安全保障では、「全ての国民が、将来にわたって良質な食料を合理的な価格で入手できるようにすること」(農林水産省)を目指している。この目標を達成し、日本の食料安全保障における課題を理解するためには、各種のデータを客観的に検証し、今後の日本の食料安全保障が取るべき針路を明らかにしなくてはならない。「食料・農業・農村基本法」においては、国内の農業生産の増大を図ることを基本とし、これと輸入および備蓄とを適切に組み合わせ、食料の安定的な供給を確保することとしている。マッキンゼーのレポート『「グローバル食料争奪時代」を見据えた日本の食料安全保障戦略の構築に向けて』では、国内生産、備蓄、輸入という要素を押さえつつ安全保障について検討していきたい。
例えば、「アジアやアフリカでの人口増加、中国やインドなどの大国での所得向上により世界的に食料消費量が増加し、需給が逼迫する」という「通説」があるが、データによる裏付けはない。2030年の世界の主要穀物需要は、2010年比で1.5倍の31億トンに達する見込みである。しかし、マッキンゼーの調査では、過去10年間の穀物需要増を牽引してきた中国の食肉消費量は欧米諸国と並んだことで頭打ちとなり、またインドの食肉需要が文化的背景から欧米諸国水準までは伸びないと予測されることから、これまでのような爆発的な伸びは見込まれないことが分かった。一方、供給面においては、先進国の技術力向上による単収向上や作付面積の拡大などにより、潜在的な生産余力は十分にある。食料貿易がよりグローバル化することや、水資源や耕作地拡大の環境負荷の増大などの理由で食料価格が不安定になる懸念は依然として残るが、劇的に需給が逼迫するとは考えにくい。
食料安全保障は、上記の通り、国内生産、備蓄、輸入の3つの手段を駆使することで成り立つ。各手段のバランスは、各国ごとに、その置かれた状況により異なるだろう。現在の日本について言えば、その多様性・嗜好性の高い食生活を国内生産および備蓄だけで維持することは、将来にわたってもたやすくないと考えられる。近年、日本では、農家・農地の減少が見込まれながらも、徐々に生産効率の向上が見込まれる最新テクノロジーが導入され、国内生産の大幅な減少を防ぐため様々な取り組みが行われている。しかし、このような取り組みが行われ、また世界の食料需給が逼迫しないとしても、日本人の多様で嗜好性の高い食生活の水準を維持し続けるには、食料輸入を含めた総合的な食料安全保障の強化に戦略的に取り組む必要がある。
小麦、トウモロコシ、肥料原料などの一部の農産物は、今後日本の食料安全保障に大きく影響を及ぼす高リスク品目と考えられる(図表参照)。加えて、輸入先国が一部に偏っており、輸入額も相対的に高い。
マッキンゼーでは、我が国がこれらの品目を長期にわたり安定的に輸入し続けられるかどうかを、データに基づいて検証した。有事、すなわち、過去のトレンドや各時点における現状分析を基に合理的に推定される供給量や需要の増減予測とは明らかに乖離するシナリオについては、循環的リスク(マクロ要因による食料・穀物価格の大幅な上昇など)、政治的リスク(主要消費、輸入国の政策転換など)、自然的リスク(急激な気候変動など)を想定した。その結果、平時(上記の有事以外の状態)、有事の双方について、次の7つのリスクシナリオを特定することができた(下記参照)。日本のみならず個別の国の食料安全保障を考える際には、グローバル全体での需給といった視点だけでなく、食文化、国内生産、輸入国、ロジスティクスなどについても、リスクシナリオを描きつつ検討するアプローチが必要である。
- 農業大国における水不足・干ばつリスク(平時): 先進農業国、新大陸輸出国に多く見られるが、特にオーストラリアで喫緊の課題となっている天水や灌漑用水の不足は、日本が輸入に頼る主要穀物の供給不足の懸念を生じさせる
- 後進農業国における資材の品質不足(平時):ロシアやウクライナなど、近年、穀物生産・輸出を大きく伸ばしている国々では、種子や農薬、肥料、農機など農業生産に欠かせない資材が質・量の両面で不十分であり、生産性向上の足かせとなっている
- 急激な気候変動による生産不足(有事):日本が輸入を依存している国々は、地球温暖化をはじめとする気候変動の負の影響を大きく受けることが予想されており、その際に生まれる新たな貿易フローに対応できるかどうかが課題となる
- 日本の需要に適合するための品質不足(平時):新たな輸入先を探す際にも、日本の消費者が求める品質の食料を確保できる輸入相手国は現時点ではごく限られており、輸入先の多様化には生産国における品質向上が不可欠である
- 新大陸・後進農業国における輸送インフラ不足(平時):ブラジルで既に大きな問題となっているが、農業生産物を輸送するインフラが不十分であることが輸出の足かせになることも考えられ、将来的には、ロシア極東からの航路についても、時間・コスト両面で輸送力の増強を検討することが必要となる可能性がある
- 日本の購買力低下による買い負け(平時):日本が世界のGDPに占める割合は減少の一途を辿り2050年頃には半減するとの見通しもあるが、相対的な経済力が低下する中で1億人の国民を養うために必要な輸入量を確保するためには、経済力以外の側面の強化が必要となる可能性がある
- 世界的食料不足の際の政治リスク(有事):2008年危機の際に見られたような禁輸や保護主義政策の台頭に加え、東アジアにおける政治的摩擦から輸送路の一時的な途絶が生じる場合を含め、様々なシナリオを検討する必要がある
マッキンゼーは、これら7つの課題に対する答えを探るため、先進的な食料安全保障政策をとっている国を比較検討対象として探索した。その結果、複数の専門家との議論を通じ、スイスとイスラエルが、その独特な地政学的位置づけゆえに先進的な取り組みを実行しており、ある種のベストプラクティスであるとの評価に至った。
データから明らかになった日本の課題と、スイスとイスラエルの先進的な食料安全保障の事例から、マッキンゼーが日本の食料安全保障の針路を描くと下記の5つがポイントとなる。1つ目は、食料安全保障は総合安全保障の一部である、という共通認識に基づいてトップダウンの戦略が描かれ、同時に、それを担う人材育成への取り組みも行われていること。2つ目に、国内農業だけでなく、輸入戦略も総合的に検討されていること。3つ目に、情報収集や外部知見の活用により、客観的な見立てに基づく対策が立てられていること。4つ目に、日本の強みを生かした相互依存関係が構築され、リスクがコントロールされていること。そして最後に、民間企業 は事業の延長で食料安全保障に貢献しており、国民も能動的に食料安全保障に取り組んでいることである。
また、日本の食料安全保障全体を貫く思想として、「世界の国々と共通の課題解決に向けた戦略的パートナーシップを構築することで食料供給・調達力を強化する」ことを提唱したい。例えば淡水化技術など、日本が世界に価値を提供することで、日本が世界から享受する便益も拡大するはずだからである。
Strengthening Japanese agriculture to maximize global reach
第1章では、世界の農業・食料供給を取り巻く現状と食料生産・貿易におけるグローバルな環境変化について、需要と供給の両面からデータに基づいた議論を行い、「食料需給は本当に逼迫するのか」を明らかにする。第2章では、日本の農業生産の現状分析と将来予測から、食料輸入に戦略的に取り組む必要性を指摘する。
第3章は、本稿の中核となる章で、日本の食料安全保障を考えるうえで重要品目となる高リスク品目(小麦、トウモロコシ、肥料原料)に絞ってグローバルな需給トレンドを確認のうえ平時と有事のリスクを検討し、日本の課題を特定する。第4章は、諸外国の事例研究としてスイスとイスラエルの食料安全保障戦略を取り上げ、日本が学べる点を確認する。
以上を踏まえ、第5章は本稿の結論部分となり、日本の食料安全保障の針路とそれを確定するためのステップを提示する。最後に、第6章では「あるべき姿」を実現するために、各ステークホルダー(政府、民間企業の担当者だけでなく、一般消費者も含む)が果たすべき役割を明確にする。
本記事で取り上げたレポートの全文は、右記よりダウンロードいただけます:『「グローバル食料争奪時代」を見据えた日本の食料安全保障戦略の構築に向けて』(PDF)